(毎日新聞)
神奈川県鎌倉市大船の熊野神社本殿内に安置されていた市指定有形文化財の神体5体が無くなっているのが判り、警察は窃盗事件として捜査しているとのこと。ご神体ドロボウといっても、福沢諭吉翁を気取る気持ちなど微塵も持ち合わせてはいるまい。闇ルートで好事家に売り捌くか一人眺めて悦に入るかといった、次元の低い目的での行為であろう。
なぜここで福沢諭吉翁の名が出てくるのかというと、諭吉翁の幼少時代のエピソードを思い出したから。少年時代の諭吉翁が親戚の家にある祠を拝まされた際「何をそんなに有り難がって拝んでいるのか、何を自分は拝まされたのか」を確認しようと祠の中を覗くと、ご神体として祭られていたのは何の変哲もないタダの石コロだった。諭吉翁はご神体をコッソリそこら辺に転がっている石と取替え、そうとは知らずに祠を拝む親戚を見て面白がったそうだ。
諭吉翁は幼少のころより既成概念・風習に囚われない合理的且つシニカル(冷笑的)な物の見方をする人だったようである。一歩間違えればタダのヘソ曲がりでしかないが、そうはならなかったのは自身も『學問ノスゝメ』で薦めた学問の力に他なるまい。
たとえば諭吉翁はそれまで江戸でも有数のオランダ語学者であったにも関わらず、明治維新後に今まで学んできたオランダ語が全く役に立たないと知るや即座に英語の勉強を始めている。これは何でもかんでもケチをつけては悦に入っているだけというタダのヘソ曲がりには到底できない。己を磨き、向上させる真の学問を修めているからこそ、あらゆる事象を冷静に、そして客観的に分析し、方策を練られたのだと思う。
なんだかえらく話が脱線しているが、脱線ついでにもう一つ。『學問ノスゝメ』は
「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云へリ」
という一節があまりもに有名になってしまったため、ともすれば人類平等論を語る本だと誤解されやすいのだが、そのあとは
「サレドモ今広クコノ人間世界ヲ見渡スニ,カシコキ人アリ,オロカナル人アリ,貧シキモアリ,富メルモアリ,貴人モアリ,下人モアリテ,ソノ有様雲ト泥トノ相違アルニ似タルハ何ゾヤ。其次第甚ダ明ナリ。実語教ニ、人学バザレバ智ナシ、智ナキ者ハ愚人ナリトアリ。サレバ賢人ト愚人トノ別ハ、学ブト学バザルコトニ由テ出来ルモノナリ」
と続いている。要するに「平等であるはずの人に違いがあるのは学問をする、しないの差だ」とし、だから学問をしましょうと諭吉翁は説いている。だから『學問ノスゝメ』なのだ。
件のご神体ドロボウに、こうした学問が全く足りてないのは言うまでも無い。大人しく縛につき『學問ノスゝメ』でも読むべし!
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