(毎日新聞)
文化庁が国民の言葉の使い方の実態を調べるため95年度から毎年実施している「国語に関する世論調査」で、今年も言葉の誤用が増えていることが指摘されている。例えば、
○「怒り心頭に発する」⇒ ×「怒り心頭に達する」
○「愛嬌をふりまく」⇒ ×「愛想をふりまく」
というように、だ。
こうした調査が行われるたびに「正しい日本語の使い方を伝えていかなくてはならない」的な論調が起こるのだが、それにも関わらず誤用が一向になくならないどころか、ややもすると
「全然大丈夫!」
のように誤用が定着してしまうのはなぜだろう?
自分が思うに、それは言葉が『生き物』だからではないだろうか。新しく生まれ、年月を経るに従って変化していき、やがて終焉を迎える。その流れは動物も、植物も、そして言葉も一緒だ。廃れてしまった言葉を“死語”と呼ぶのは偶然ではあるまい。言葉は生きているのだ。
では、なぜ言葉は変化するのだろうか。それも、他の動植物と比べてみれば答えが出る。動植物が外見等を変化させる理由は色々あるが、突き詰めていけば『生きるため』だ。言葉が変化するのは、時代のニーズや人々の使い勝手に合わせることによって『生き延びる』ためなのだろう。もちろん昔から変わらない言葉もあるが、それはその言葉がどんな状況においても生き延びることができる強さを持つ証明であろう。
話を戻すと、言葉の乱れや誤用は、実はあまり心配しなくてもいい事柄なのかもしれない。あまりにも人々から嫌われる言葉の乱れや誤用が生き残っていけるとは考えがたく、遠からず死語と化すだろうから。
もちろん絶滅危惧種に指定されている動物に保護の手を差し伸べるような形で、美しい日本語を保護する対策を取るほうがより良いのは当然だが…。
トラバいただき、ありがとうございます。記事に関連はあるのですが、トラバ先のURIが記載されておりませんね。これがないとはねられてしまうブログサーブスサイトもあるくらいです。今後はお入れください。なお、通常は削除するのですが、内容が内容ですので残しておくことにします。